生きる道を選択して欲しい・・・
自分のときを振り返ると、自殺を考えるときって、何かに取りつかれていたのだと思います。
ただただ、苦しくて、生と死の別れ道は、紙一重でした。
どうか、苦しくても、いつか笑える日がくるはずです。
どうか、どうか、生きてください。
円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち)さん
1940年(昭和15年)5月13日 – 1968年(昭和43年)1月9日)は日本の元陸上競技(長距離走・マラソン)選手、陸上自衛官。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
メキシコシティ五輪の開催年となった1968年(昭和43年)の、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺した。
27歳没。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」から始まり「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に
幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません
の言葉は、当時の世間に衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。
さらに、同年のメキシコシティ五輪男子マラソンで銀メダルを獲得、当時最後のマラソン代表枠を円谷と争っていた君原も、大きなショックを受けたという。
ある日走った その後で 僕は静かに 考えた
誰のために 走るのか 若い力を すり減らし
雨の降る日も 風の日も 一人の世界を 突っ走る
何のために 進むのか 痛い足を がまんして
大きな夢は ただ一つ 五つの色の 五つの輪
日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ
父さん 許して下さいな 母さん 許して下さいね
あなたにもらった ものなのに そんな生命を 僕の手で
見てほしかった もう一度 表彰台の 晴れ姿
だけど 身体は動かない とっても もう 走れない
これ以上は 走れない
やっばり、生きてください。
東京五輪マラソンの円谷幸吉、日本で一番有名な遺言を残した自殺の真相
“父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。
干し柿、餅も美味しゆうございました。”家族にあて、こう書き始められた日本でいちばん有名な遺言を遺した。
その遺言を激賞した川端康成と三島由紀夫の文章もこの本に載っている。
なるほど、円谷の遺言と死をこういう文脈で誉めていたのか。
二人ともが後に自殺しているだけに、その内容の奥深さもひとしおだ。
生きていたら79歳、来年の東京オリンピックについて
どんな手紙を書いていたか
円谷とデッドヒートを繰り広げたヒートリーは、円谷の遺族と親交を結ぶようになり、2020年の東京オリンピックを楽しみにしていたという。
しかし、残念ながらこの夏、それを待たずに亡くなった。
うつくしい日本人として今なお記憶に残る円谷幸吉。
自殺していなければまだ79歳、
二度目の東京オリンピックを前に引っ張りだこになっていたはずだ。
もしそうであったら、今の日本人、そして来年の東京オリンピックについてどんな手紙を書いていたことだろう。
やっぱり、生きていてよかった・・・・。
そう書いていたのではないか、と思います。
命・・・ウラクライナとロシアの闘いもまた、胸が締めつけられる思いです。
あと数カ月後、我が子を亡くした母親、父親、家族を亡くしたロシアの人々が、本当のことを知ったら、どんなに悲しいことでしょう、どんなに苦しいでしょう。
誰でも、どんなときでも、生きる道を・・・。