以前は、中曽根元総理も通った禅寺で週一回座禅を組んでいたこともありますが、住職さんが亡くなられてから、楽しみにしていた法話を聞けなくなって、行かなくなってしまいました。
もともと、仏教とか宗教とかとは別に、そこで聞けるお話に自分の謎解きの鍵を見つけたい、という思いでした。
YouTubeでいろいろな謎を解くようになって、今では、毎日聞かせてもらっているのが、親鸞聖人の教えを伝えてくれる「仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太」です。
シンプルで素朴で、しかし、奥が深くて、今の私にとっては、仏教は、宗教ではなく、仏道、哲学と感じます。
親鸞聖人の教え、今までもやもやしていた霧が、晴れてくるような気分です。
ただ、毎日聞いていても、聞いたことを再現できない・・・・。
ゆっくりでも、確実、着実に教えの意味を知りたい・・・。
今日の親鸞聖人の教えのキーワード
- 難度海
- 大船
まずは、この二つが基本なので、しっかり頭に入れておきます。
その他の今日メモしたキーワード
平生業成
一念
往生治定
正定之衆無上の幸福
無耳人
無眼人
太閤秀吉の夢の又夢
仏教では、人生を「海」にたとえられます。
私たちは生まれると同時に、果てしない大海のど真ん中に放り出されたようなものです。
生まれ落ち、オギャーと泣いたその時が、大海に放り出された時。
そこから私たちは、人生の海を泳ぎ始めました。
よちよち歩きしたり、おっぱいねだって泣くのは、赤ちゃんが一生懸命「生きよう生きよう」としている姿です。
赤ちゃんも人生の波と戦って「泳ごう泳ごう」としているのです。
それからやがて幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と進んでいくのは、どんどん泳いでいく姿です。 生きていくと、いろいろな困難が起きてきます。
人生の困難を波にたとえられています。
試験の波を乗り越え、人間関係の波を乗り越え、病気の波を乗り越え、今までも、今も、今からも波と戦って泳ぐのです。
「どうしたら試験合格できるか」 「どうしたらクラスであの人と上手くやっていけるか」 「どうしたら正社員に採用されるか」 それは自分に押し寄せる波の乗り越え方の研鑚です。
波の乗り越え方が下手だと潮水飲んで苦しむので、大波、小波、それらを乗り越えるにはどうしたらいいか、どんな泳ぎ方がいいか、どう生きたらいいか、みな考え続けます。
やがて泳ぎ方が上手になって、塩水飲まなくてもいいようになってくると、「大人になった」「一人前になった」と言われます。
しかしずっと泳げる人は誰もいません。
若い時は上手に泳げた人も、老いると病気にもなり、稼げなくなり、人も去り、上手に泳げなくなっていき、塩水飲むようになってきます。
そしてやがてどんな人も「これ以上泳げない」とついに力尽き、土左衛門になる時があります。
俯瞰すれば、人は水平線しか見えない海をただ泳いで、やがて独りどこかで溺れていく存在といえましょう。
「どこへ向かって泳ぐか」「なぜ生きるか」人生の目的という根本が脱落している悲劇を気付けと、警鐘乱打された方が親鸞聖人なのです。